火のないところに煙は立たない
ことわざはずるい。無批判にすんなりと受け入れられる。
例えば火のないところに煙は立たないなんて嘘っぱちである。
豊川信用金庫事件なんて最たる例だ。心を煽るエキサイティングなデマであれば人々はこの言葉とほんの少しの根拠を錦の旗にデマを拡散する。
「浅瀬に仇波」という言葉がある。思慮の浅い者は騒がしいという意味だ。
うるさい相手に「そんなあなたにぴったりな言葉、浅瀬に仇波」なんて言ってみたくもなるけどそれが単なるレッテル張りに他ならないのは言うまでもない。
ことわざは時として寓話に基づき演繹によって得られた公理のように見えるがそれは誤りで、ことわざや格言のようなものが常に正しいとは限らないし、そういった言葉はレッテル張りに他ならない。もし正しくことわざが使いたいなら、「いかにもこの状況と合致している」という確定した場面で後出しで使うべきなのだ。
こんな格言を知ってる?「汝の知識を自慢するな」-プタハヘテプの訓戒より
それとあと「年長者を敬え、勤勉であれ、心を込めて仕事しろ、多くを考え口を慎め」
同様なものが格言、そしてマンガだ。これらは自身の意見を代弁してくれるけれど、決してその言葉が元の発言者の意図したところとして正しいわけではない。
例として以前も挙げたように、攻殻機動隊に登場するセリフがある。
>「社会に不満があるなら自分を変えろ」
この言葉はよく社会に何か訴えかける人に向けて使われがちな言葉だ。
この言葉の背景にある価値観もまた認められてしかるべきものではあるけれど、作中でその言葉を発した人間がどういった人間で最終的にはどうなったのか、もう一度作品を見返すべきではないだろうか。
漫画の例だとスルメロックの4コママンガだろう。
バカな質問をする人へ pic.twitter.com/UOtWuFFnuE
— スルメロック (@surumelock) 2019年6月23日
いやそうはならんやろ
彼のマンガはそのマンガ内での主張の根拠となる事実を(わざと)曲解したものであり、大抵の場合は間違っている。そもそも相手を醜くカリカチュアするのどうなのよ
マンガの一コマを切り抜いたものであっても格言と同様だ。
それらの言葉にはそれぞれバックボーンがあるものであって、そのバックボーンを理解した上でその言葉を使う理由があるのなら、ことわざ同様後出しで出すべきである。
常識を疑うのではなく本当に常識なのかを疑うべき
ではなぜ人はことわざや漫画、格言といった他人のことばで主張をしてしまうのか。
第一に、彼らがその言葉を使う際の過ちに気づいていないという場合。
彼らの内に響きすぎた金言を彼らは黄金律として丁重に扱い、そして真実だと勘違いしてしまう。自分に響いた言葉なら他人にも響くだろうと思いその言葉をそのままさも自分が思っていることと一致しているかのように使ってしまう。
第二に、他人の言葉であれば自分へのダメージがほとんどないから使うという場合。他人の言葉であれば、その状況下では自分が発した言葉となっているにも関わらず、「文句は作者に言え」が一見通用してしまうかのように見える。正しいと思ったからそれを引っ張ってきたのではなく、都合がいいからその言葉を借りているにすぎない。
第三に、発言者が幼稚な人間であったという場合がある。ネットに触れたばかりのときは覚えたてのAAやらコピペやらブラクラをやたらめったら貼りたがるものである。それと同じだ。茶化したり煽ることが目的なので、意見は持っていないかもしくは他の大勢と合わせていって主張を行う。
これに付け加えて、いわゆる知的マウントもそれと似ているのではないだろうか。きれいな女の人をとてシャンと言っちゃたり、バターのことをいちいちボートロ円って言っちゃったりまあ博識アピールというか古参アピールというか...なんで最近中二病って言わなくなったんでしょうね。
一言でいうならペダンチック。コミュニケーションをまるで取る気がない、とか言ってるとそれはお前がバカだからだとか言い出すんだもん。たまったもんじゃないよ。なーにがオッカムのカミソリだなーにがシュレディンガーの猫だ。「シック・エト・ノン」とか「クレド・クイア・アブスルドゥム」とかの方が言葉の響きがかっこいいじゃん。(そういえば道満晴明のニッケルオデオン(赤)にベクトルは違うけどそんな感じのかっこいい言葉で戦うって話があった(scene12:パラケルススの愛弟子達)
無論Twitter上でのマンガの一部を使ったコミュニケーションなんかは著作権上の問題は別として批判する気は毛頭ない。LINEでいうスタンプのような使い方をする文化があるというのは知っている。それらのコミュニケーションをこの観点から批判することは本筋からずれている。
こんな格言を知ってる?"All the world's a stage" -William Shakspeare
「この世界はすべてこれ一つの舞台」ーシェイクスピア『お気に召すまま』より
そういえば作家兼心理カウンセラーの中村幸也さんの6月22日の記事、『悪口を言っている人は脇役』を読んだ。
「アンチは嫉妬でアンチコメをする」というのはある大物youtuberも言っていたことで、それが本当かどうかについての吟味はほかのブログでもさんざんされていることなので割愛するが、批判の深層心理に嫉妬があるとか他にも言いようがあるからこれについてはもうどうしようもないと思っている。なので批判がなぜあるのかというのはここではさておき、この記事の内容とも関連しているので中村さんのブログの後半を読んでいただきたい。
そういえば「言葉の錬金術師」の異名をとり膨大な量の文芸作品を残した寺山修司氏はこんな言葉を言ったそうです。
「悪口を言われる方はつねに主役であり、言っている方は脇役である」と。
人の事を悪く言うだけの者が主役になる事はありません。
なぜなら、悪口を言う事によって自らが脇役に成り下がり、余計に主役を引き立てるだけだからです。
「何もしない人」ほど人の事を批判するようになりますが、批判されながらも行動する人はどんどん前へ進んでいきます。
有り難い事に「少年革命家ゆたぼんチャンネル」のYouTubeチャンネル登録者数が50000人を超えました。
「悪口を言われる方はつねに主役であり、言っている方は脇役である」
いい言葉だがこれは決して真理なんかではなく、慰めの言葉だ。
悪口を言う人間と脇役は等式で結べない。
よく言われることではあるが、今を生きる一人一人が主人公であってそこにモブはいてもまた別の人生という物語の中で主人公となる。またまるで当然のことのようにサラリと書いているが、「何もしない人」ほど人のことを批判するというのは願望ではないか。そしてチャンネル登録者というのはよくも悪くも注目されているということであり、それを即座に成功だと手放しに喜べるものではないだろう。あ、テレビ出演はすごいですね。おめでとうございます。
それから、これは想像だが中村さんは名言を覚えるほどの寺山修二氏のファンではなく、状況に合致する言葉を探していてこの言葉と出会ったのではないだろうか。「悪口を~」で検索しても出典すら明記していない名言まとめサイトのようなものが出るばかりだ。そして中村さんは2011年からtwitterをなさっているようだが、「寺山修司」でtweetを検索してもツイートはなかった。もしそうだとしたら、不肖は軽蔑する。記事を書く際に情報を調べて書くのは確かに当然といえよう。確証のない記事はただの自己満足であり乱文だ。しかし権威付けのために状況に合致した言葉を探しているのであればそれは...って書いててふとブログのカテゴリ欄見たら
「名言」って言われたらありがたがっちゃうタイプの人か~
まあそういうひともいるよね!
おわりに
さんざん名言だのなんだのをこき下ろしてきたけど美少女が言うんなら別にいいです。