いつかワナビだった俺は成功者に嫉妬する

見なくていいものを自分から見てダメージを受ける男

・芽が生えたひと、種を蒔いてすらいない人

 ふとかつての同級生のtwitterを見た。絵が上手で、共通の趣味もあり仲もよかった。
確か高校は美術系へ進んだと聞いていたが今は何をしているのか、ひょっとして同じ地方へ上京してたりなんかして、と思いをはせ、記憶を頼りにアカウントを探した。

思いのほかすぐ見つかった。かつてバズった(当時はそんな言葉なかったけど...)と自慢されたツイートで検索するとidがわかったのでそれを頼りに見てみると鍵垢だった。


まあそんなこともあるよねと思ってるとプロフィール欄にいわゆる創作垢へのリンクが貼っていた。確かに絵がうまかったもんなーと思ってリンクを飛ぶ。フォロー50フォロワー1000。正直言って驚いた(フォロワー数やいいねの数を数として見るのは好きじゃないけれど)。主なコンテンツが流行ジャンルの二次創作とはいえフォロワーがそこまでつくというのはすごいし、有象無象のクリエイターとは一線を画している。

・「マンガ好き」の抱えるパラドックス

 ツイートを見ていると、ある一文が目に飛び込んできた。それは、その人があるマンガのアシスタントを担当したということ、そしてそのマンガのクレジットに載ったその人の名前だった。度肝を抜かれた。

そのマンガはメジャー誌に載ってるようなものでないにせよその人が二次創作をしているジャンルではもはや一次創作となっているもの。不肖だって名前くらいは聞いたことがある。

 

本来ならおめでとう!すごいね!と祝福すべきなのだろう。

 

確かに不肖の中での最終的な感情の着地点はそこだった。

しかしその途中不肖を襲ったのは得も言われぬ複雑な感情だった。それはまるで羨望のようで、かつてワナビだった不肖が為しえなかったことをその人が為しているということへの嫉妬でもあり、同年代でありながらただコンテンツを消費するにすぎない不肖への悲憤だった。とにかく、自分でもわからないくらいたくさんの、複雑な思いが込み上げてきた。

 

・「マンガ好き」は「マンガ家様」と平等ではない

 オタク-ヒエラルキー的に、コンテンツを作るものはコンテンツを消費するものよりも上位にいる。これがいわゆるネット絵師様なるものをはびこらせている根拠であり風潮でもあるしネット、主にSNSにおける価値観である。
 この風潮の上でいくら不肖が「読んでいるマンガは選んでいる。特に山本直樹劇画村塾については造詣があるし機会があればいろいろな人とそれについて語りたい」なんて思っていても、ほぼすべての人にとってそれはゴキブリがテーブルマナーを守っているかどうか程度の些細なことであり、はっきりいってどうでもいいことなのである。

クリエイター、フォロワー「数」至上主義であるオタク-ヒエラルキーは牙城だ。間違っているなんて主張してもオタク-ヒエラルキー支持者にとってそれは非クリエイターの戯言にすぎないし、内心自分もこのヒエラルキーが一つの価値観としては必ずしも間違っているとは思えないのである。

・酸っぱい葡萄

自分はクリエイターではないつもりだった。趣味で絵を描いたとしてもそれは単なる自己満足だし多くの人に見られなくたっていい。
しかしなぜこうも嫉妬してしまうのだろう。そもそもこれは本当に嫉妬なのだろうか。
思いは逡巡し交錯する。
「しょせんアシスタントだろ?どこにだっているし珍しくもないって」
「でもこのマンガコンテンツ自分好きじゃないやつだし」
「そもそも俺はマンガなんて描いてないだろ?」
「自分はそれなりにいい大学行ってるし別にいいでしょ」

 

きっと嫉妬だろう。無理やり勝ち負けなんかつける必要もないのに、ムキになった心は何かと優位なものを見つけ出して落ち着かせようとする。自分が好きなもの、「マンガ」というものの中での一歩を、クリエイターになるというヒエラルキー上位への一歩を踏み出しているからこそ、それは不肖にとって猛烈に効きすぎていた。

 

ただこの嫉妬は、かつてワナビの不肖が持っていた夢叶えたことに対してではない。

 

不肖が漠然とモラトリアムを消費する中、今日も何か着実な方向へ一歩を踏み出している誰かがいる。

そして今回はその人が一人目に見える形になっただけなのだった。

 

 

改めてKさん、おめでとう。

さんざん言って申し訳なかったけど、結局すごいとしか言いようがないです。

単行本、毛嫌いせずに買って読んでみます。

それが「元友人」の本来取るべき態度だと思うので。